しげのです。
風雷社中では、「風雷社中の広報に関するプロジェクトチーム」みたいなものがあって、そこで「何人かで分担してブログの曜日決め更新」みたいなことが決まったようだ。それで僕には、「毎週木曜日にブログを更新せよ」という指示が。
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中村かずとし 4月1日
To コアメール, 自分
庭野さん、ありがとうございました。
茂野さんがコアmail届いてないようなので、ローテーション再送します。
fight for your right (to party)遊ぶためにね、、、
http://fuu-rai.blogspot.jp/
・常勤は毎週更新
田中 月曜日
庭野 火曜日
中村 水曜日
茂野 木曜日
カテゴリー 風雷日々是々
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中村君いわく、個人がプライベートなことを書くのが注目度をあげる要諦なのだそうで、内容はきちんとしたものでなくて気の利いたものでなくてもよい。何でもよいから、とにかく更新の数が増えることが注目度を増すのだそうだ。
ほお、何でもよいのだな。
毎週木曜日に、何かしら書けばよいのだな。よかろう。
僕は自分のブログ「はい、しげのですが?」を持っているわけだが、更新頻度はとても少ない。よそから頼まれて締切つきの原稿を書く時を除けば、一応まじめに書こうと思うと、気力が充実しているか感情が高ぶっているか、どっちかでないと、できない性分なのだ。だが、「何でもよいから毎週」と言われれば、それなりの考えがあるぞ。写真でも4コマまんがでも、手段を選ばず更新してやろうではないか。
そういうわけで、「週刊『はい、しげのですが?』」を始めることにします。
しげのは1960年新潟市に生まれました。小中学校の頃は勉強しかとりえがなかったのですが、高校に入ったらちっとも勉強しなくなりました。
だって、高校を卒業したら大学に進学せずに、市役所あたりに就職するつもりだったのです。
早く独立して、
過剰に干渉してくる母親と、
酔って暴れまわる父親と別のところに住みたかったのです。
新潟高校ではびりから数えた方が早いくらいの成績になり、数学やら物理とかはもお、2点とか5点とか平気で取っていました。
中学の時は英語検定3級を取得してましたが、辞書を引き引きシェイクスピアの古典を読むのは耐えがたく、人の話はちゃんと聞くという習慣で育ったため、相性の悪い先生の授業をまじめに聞こうとして、結局日本語として何を言っているかもさっぱりわからず、かと言って参考書を買って独習するわけでもなく、少女マンガばかり読んでいたら、そんな風になっちゃったのです。それでも高校生活は何の問題もなく、なかなか楽しかった。部活動は放送部に所属。のちに休部状態の新聞部を引き継いで、部長になっておりました。(新聞部の件は、両親には内緒。)
そして、高校2年生の時に「就職するのだ」と言ったら、両親はすごいことになりました。
「これはいかん。とても新潟で安穏な生活は送れないぞ」、と思い直し、ならば、就職は見送って県外の大学を受験する方がよさそう、という結論に達しました。
幸い、うちの両親は、いろんな拘束や禁止や干渉や横暴はありつつも
<勉強の時間や環境の提供に関しては好意的>
というありがたい部分があり(考えれば恵まれた話ですわな)、結果、1浪して「新潟ゼミナール」という予備校に通って東北大学をめざすことになりました。
「新潟ゼミナール」では、新潟高校を定年退職した老先生(一部は現役続投中だったりした)が授業をしていて、また2カ月も過ぎると各クラスには10人くらいしか受講生が残らないようなところでしたが、不思議なもので、同じ先生であっても、高校の時の授業より、はるかにわかりやすかった。予備校のオリジナルテキストと高校教科書の質の違い、というのもあっただろうけど。結果、予備校生活は、適度の緊張感もあり、高校生活よりも楽しく充実したものでした。おかげで、1年間でまあそこそこの学力まで回復し、東北大学法学部と上智大学法学部は不合格でしたが、関西大学、同志社大学、立命館大学、明治大学の法学部に合格することができました。
明治大学と同志社大学のどちらに入学するか迷ったのですが、小さいころから京都の寺院にあこがれがあったので、1980年、同志社大学に入学しました。
(「福祉コミュニティ大田」代表の浜洋子さんが、その年に明治大学に入学したらしいので、あの時明治大学を選んでいたら、浜さんと一緒のキャンパスライフだったのかもしれませんぞ。)
さて、そうしてあこがれの京都生活が始まったのですが、なんと1か月足らずの間に「結構感じの悪い街だ」という気分になって来ました。観光客には見かけは親切だが、よそ者を懐に入れないための文化的なしかけがいっぱい、いつも裏で舌を出してるんじゃないの?という感じ。
京都の町の思いがけない居心地の悪さにいらいらしている最中の4月も末になって、東北大学の法学部が定員割れを起こして、史上初めて、20名の補欠合格者を出すことになりました。合格者の中から早稲田大学等に流れた人が多くいたらしいのです。その補欠合格者に、僕も含まれていました。
「あ、だったら『杜の都』で静かな生活がしてみたいなー」なんて考えて、連休のうちに京都を引き払って仙台に引っ越しちゃいました。今考えれば贅沢な話です。
まあ、静かな生活にはならなかったのだけど。
-続く-
風雷社中では、「風雷社中の広報に関するプロジェクトチーム」みたいなものがあって、そこで「何人かで分担してブログの曜日決め更新」みたいなことが決まったようだ。それで僕には、「毎週木曜日にブログを更新せよ」という指示が。
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中村かずとし 4月1日
To コアメール, 自分
庭野さん、ありがとうございました。
茂野さんがコアmail届いてないようなので、ローテーション再送します。
fight for your right (to party)遊ぶためにね、、、
http://fuu-rai.blogspot.jp/
・常勤は毎週更新
田中 月曜日
庭野 火曜日
中村 水曜日
茂野 木曜日
カテゴリー 風雷日々是々
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中村君いわく、個人がプライベートなことを書くのが注目度をあげる要諦なのだそうで、内容はきちんとしたものでなくて気の利いたものでなくてもよい。何でもよいから、とにかく更新の数が増えることが注目度を増すのだそうだ。
ほお、何でもよいのだな。
毎週木曜日に、何かしら書けばよいのだな。よかろう。
僕は自分のブログ「はい、しげのですが?」を持っているわけだが、更新頻度はとても少ない。よそから頼まれて締切つきの原稿を書く時を除けば、一応まじめに書こうと思うと、気力が充実しているか感情が高ぶっているか、どっちかでないと、できない性分なのだ。だが、「何でもよいから毎週」と言われれば、それなりの考えがあるぞ。写真でも4コマまんがでも、手段を選ばず更新してやろうではないか。
そういうわけで、「週刊『はい、しげのですが?』」を始めることにします。
【連載大河小説「しげのが風雷社中に来た経緯をめぐる長い物語」 第1回】
・・・しげのが大学に行くまで・・・
しげのは1960年新潟市に生まれました。小中学校の頃は勉強しかとりえがなかったのですが、高校に入ったらちっとも勉強しなくなりました。
だって、高校を卒業したら大学に進学せずに、市役所あたりに就職するつもりだったのです。
早く独立して、
過剰に干渉してくる母親と、
酔って暴れまわる父親と別のところに住みたかったのです。
新潟高校ではびりから数えた方が早いくらいの成績になり、数学やら物理とかはもお、2点とか5点とか平気で取っていました。
中学の時は英語検定3級を取得してましたが、辞書を引き引きシェイクスピアの古典を読むのは耐えがたく、人の話はちゃんと聞くという習慣で育ったため、相性の悪い先生の授業をまじめに聞こうとして、結局日本語として何を言っているかもさっぱりわからず、かと言って参考書を買って独習するわけでもなく、少女マンガばかり読んでいたら、そんな風になっちゃったのです。それでも高校生活は何の問題もなく、なかなか楽しかった。部活動は放送部に所属。のちに休部状態の新聞部を引き継いで、部長になっておりました。(新聞部の件は、両親には内緒。)
そして、高校2年生の時に「就職するのだ」と言ったら、両親はすごいことになりました。
「これはいかん。とても新潟で安穏な生活は送れないぞ」、と思い直し、ならば、就職は見送って県外の大学を受験する方がよさそう、という結論に達しました。
幸い、うちの両親は、いろんな拘束や禁止や干渉や横暴はありつつも
<勉強の時間や環境の提供に関しては好意的>
というありがたい部分があり(考えれば恵まれた話ですわな)、結果、1浪して「新潟ゼミナール」という予備校に通って東北大学をめざすことになりました。
「新潟ゼミナール」では、新潟高校を定年退職した老先生(一部は現役続投中だったりした)が授業をしていて、また2カ月も過ぎると各クラスには10人くらいしか受講生が残らないようなところでしたが、不思議なもので、同じ先生であっても、高校の時の授業より、はるかにわかりやすかった。予備校のオリジナルテキストと高校教科書の質の違い、というのもあっただろうけど。結果、予備校生活は、適度の緊張感もあり、高校生活よりも楽しく充実したものでした。おかげで、1年間でまあそこそこの学力まで回復し、東北大学法学部と上智大学法学部は不合格でしたが、関西大学、同志社大学、立命館大学、明治大学の法学部に合格することができました。
明治大学と同志社大学のどちらに入学するか迷ったのですが、小さいころから京都の寺院にあこがれがあったので、1980年、同志社大学に入学しました。
(「福祉コミュニティ大田」代表の浜洋子さんが、その年に明治大学に入学したらしいので、あの時明治大学を選んでいたら、浜さんと一緒のキャンパスライフだったのかもしれませんぞ。)
さて、そうしてあこがれの京都生活が始まったのですが、なんと1か月足らずの間に「結構感じの悪い街だ」という気分になって来ました。観光客には見かけは親切だが、よそ者を懐に入れないための文化的なしかけがいっぱい、いつも裏で舌を出してるんじゃないの?という感じ。
京都の町の思いがけない居心地の悪さにいらいらしている最中の4月も末になって、東北大学の法学部が定員割れを起こして、史上初めて、20名の補欠合格者を出すことになりました。合格者の中から早稲田大学等に流れた人が多くいたらしいのです。その補欠合格者に、僕も含まれていました。
「あ、だったら『杜の都』で静かな生活がしてみたいなー」なんて考えて、連休のうちに京都を引き払って仙台に引っ越しちゃいました。今考えれば贅沢な話です。
まあ、静かな生活にはならなかったのだけど。
-続く-