仙台弘済病院:さよならライトオブゴールデンボール。
4週間も黙って休載して、おまけに木曜日でもないのに何だといえばそのとおりだが。
今日宿泊したホテルのせいで、いろいろ思い出したことがある。
このホテルの道路(晩翠通り)の向かい側に立つのが東北弘済病院。
1986年だか1987年だか、いまや定かではない。
僕がCBなんとか、という50CCの原付バイクを柄にもなく使用していたころ。
このバイクはクラッチの入り方・切り方がとてもタイトで、
停止時にニュートラルギアに入れる時に、結構惰性が残ってしまったりするのだった。
その日は歩道の段差に乗り上げる際に股間をしたたか打って、
結構痛いなあと思いながら、
当日はアムネスティインターナショナル仙台グループと
仙台東チモールの会の共催による
「ミミ・フェレイラさんを迎える会」
みたいな学習交流会を催し、我慢をしていたのだった。
(この時にアムネスティインターナショナルの新人職員として、
いまや人権派弁護士として活躍する岩井信さんが来仙していた。
僕と同い年。今知ったのだが、連れ合いが坂上香さんだったとは。)
当時、この集会には医学部の学生が多く参加していたのだが、
誰もが僕の「すっごく痛い」という訴えに対して
「ぴょんぴょん飛んで○○を下げれば大丈夫」とかいう適当な答えをしていたのだった。
結果として、引かない痛みに耐えかねて2日後に病院に駆け込んだ段階で、僕の右睾丸は壊死していたのだ。
仙台弘済病院で簡単な切除手術の後、2週間ほど、入院した。
この病院は仙台の繁華街に接していた。
一番早く見舞いに来てくれたのが西宮弘さん
http://kokkai.sugawarataku.net/giin/r01127.html
で、これには大変恐縮した。
突然時間ができた僕は、それまで手にすることもなかったレーニン著作集に手を出し
「左翼小児病について」とか読んで「しげのもついに本格的にまずいぞ」と言われるようになった。
ベッドの上で原稿を書いて「退学者有志」とかいうビラを、教養部に後輩に撒きに行かせたりもした。
右睾丸と引き換えに、人生で最も温度が高かった時期であったことは間違いない。
1993年に今の連れ合いとの生活を公表するパーティーを大森で催した時、
西大條文一センセイが、このカタキンネタを軽妙な挿話として披露してくれたのだが、
残念ながら見事に滑ったのも記憶に新しい。
西大條氏は医者ながら舞踏家の道をひた歩み、近年は別名吉村文章という。
そおいえば、当時、西宮さんの屋敷の隣に住んでいた医学生の坪野君は、今どおしているのだろう。知っている人がいたら、教えてください。
4週間も黙って休載して、おまけに木曜日でもないのに何だといえばそのとおりだが。
今日宿泊したホテルのせいで、いろいろ思い出したことがある。
このホテルの道路(晩翠通り)の向かい側に立つのが東北弘済病院。
1986年だか1987年だか、いまや定かではない。
僕がCBなんとか、という50CCの原付バイクを柄にもなく使用していたころ。
このバイクはクラッチの入り方・切り方がとてもタイトで、
停止時にニュートラルギアに入れる時に、結構惰性が残ってしまったりするのだった。
その日は歩道の段差に乗り上げる際に股間をしたたか打って、
結構痛いなあと思いながら、
当日はアムネスティインターナショナル仙台グループと
仙台東チモールの会の共催による
「ミミ・フェレイラさんを迎える会」
みたいな学習交流会を催し、我慢をしていたのだった。
(この時にアムネスティインターナショナルの新人職員として、
いまや人権派弁護士として活躍する岩井信さんが来仙していた。
僕と同い年。今知ったのだが、連れ合いが坂上香さんだったとは。)
誰もが僕の「すっごく痛い」という訴えに対して
「ぴょんぴょん飛んで○○を下げれば大丈夫」とかいう適当な答えをしていたのだった。
結果として、引かない痛みに耐えかねて2日後に病院に駆け込んだ段階で、僕の右睾丸は壊死していたのだ。
仙台弘済病院で簡単な切除手術の後、2週間ほど、入院した。
この病院は仙台の繁華街に接していた。
一番早く見舞いに来てくれたのが西宮弘さん
http://kokkai.sugawarataku.net/giin/r01127.html
で、これには大変恐縮した。
突然時間ができた僕は、それまで手にすることもなかったレーニン著作集に手を出し
「左翼小児病について」とか読んで「しげのもついに本格的にまずいぞ」と言われるようになった。
ベッドの上で原稿を書いて「退学者有志」とかいうビラを、教養部に後輩に撒きに行かせたりもした。
右睾丸と引き換えに、人生で最も温度が高かった時期であったことは間違いない。
1993年に今の連れ合いとの生活を公表するパーティーを大森で催した時、
西大條文一センセイが、このカタキンネタを軽妙な挿話として披露してくれたのだが、
残念ながら見事に滑ったのも記憶に新しい。
西大條氏は医者ながら舞踏家の道をひた歩み、近年は別名吉村文章という。
そおいえば、当時、西宮さんの屋敷の隣に住んでいた医学生の坪野君は、今どおしているのだろう。知っている人がいたら、教えてください。
あくまでも、このブログはこんな感じで行くぞ。うん。