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半生 pt.1

庭野ですよ。 若干紹介されているところもあるのですが、不肖庭野、つい4年前まではバンドをやってました。 実際人生の半分以上費やしているってのが、なかなか感慨深いな。 そんな歳っすか、もーもーもー で、よく「なんで始めたんですか?」と聞かれるので、 たまには過去を思い返してみようではないか。 *********** ・・・なんで始めたのか細かくは思いだせんぞ!???? まあ、細かい事はさておき、高校の頃、楽器を始める連中がワンサカいたのでした。 クラスメイトでもオレもオレもと始め、地元でもそのフィーバーがあり、 例に漏れず庭野もそのゴールドラッシュに乗っかった。 中学の頃はTHE YELLOW MONKEYに地元の皆で昏倒しており、 バンドに対する憧れはそれなりにあったのかと。 ちなみに解散ライブの「メカラウロコ8」は地元のイエモン好き4人で行ってきました。 音楽もまあまあそれなりに、当時は日本のバンドをよく聴いていたもので、 オレの場合何が火付け役だったというと・・・ 以外や以外にDragon Ashだったのである。 当時?より少し前に出ていた「Buzz Songs」ってアルバムの3曲目に入っていたこの曲。 このベースが好きで「あー、ベース始めよう!」というのもあり、 ギターでなくベースからやろうという天邪鬼なところもあったのであった。 馬場育三さんは数年前に亡くなっていましたね。 間奏のベースソロは無茶苦茶練習しまくっていた覚えが。 つうか、ロックベースってかジャズベースのラインですよ。 ちなみに初めて買った店は今は亡きYAMAHA渋谷店でした。 同時に買った楽譜は ・Buzz Songs - Dragon Ash ・Drag Treatment - 黒夢 そう、黒夢も好きだったのでやんす。 その他、細かい楽譜は学校帰りに経堂のミュージックワダでよく買っていたなー あの店まだあるのかしら。 そんな初心者泣かせの練習が功を奏してか、 部活も辞め、家に帰っては練習ばっかしていてメキメキと上達した・・・ と、言いつつも途中やらなくなった時期もあったような。 しかし、如何せん

小さなことをたくさんの人がやったらいいね

0か100じゃなくて それぞれができることを できる範囲で やればいいじゃない と思って私はグラフィックデザインのボランティア協力をしています。 オシャレもしたいし デートもしたいし 料理もしたいし お酒をのみながら語り合いたいし のんびりしたいし 映画もアートも音楽も楽しみたい☆ そんな暮らしにほんの少しのボランティア♪ あなたもほんのすこーしボランティアしてみませんかー♪♪ 【デザイン協力したイベントの宣伝】 6月13日(金)19:00〜DETの体験イベントですよ! http://colors-tokyo.jimdo.com/ 6月15日(日)19:00〜インターネットラジオOpen Session♪の公開収録ですよ!これは来ないと損ですよ! http://opensession.jimdo.com/ キャンペーン!協力団体募集中! ガイドヘルパーが足りなくて外出できない人がいるなんて非常事態ですよ! みんなでよくしていきましょー♡ 風雷の週1ヘルパー デザインボランティア ささきまなみより

【自分の仕事を見せていくことをTRANSIT☆YARDで実現する】

【自分の仕事を見せていくことをTRANSIT☆ YARDで実現する】 ♪♪♪昼間のパパは  ちょっと違う♪♪♪      ♪♪♪昼間のパパは男だぜ♪♪♪ と 私が敬愛してやまないキヨシロ→さんが歌ってらした それは確かに真実で、 それを自分の子どもに見せなきゃならないし 自分は親の仕事を見たほうが良い …………ってコトを 元大工のタダオおじいちゃんと その娘さんの側にいて実感した。 娘さんは40歳を過ぎた今、 初めて自分の父親が大工仕事をする姿を見て、 涙が出るほど感動したそうだ。 「うちのお父さん、こんなに凄いコトができる人だったんだ」 「こんなに人から喜ばれる仕事をしていたんだ」 ってね♪♪♪ タダオおじいちゃんは70歳半ばの粋な人♪ 予算0で店をつくっちゃおうという 【colors-cafeは、予算0だよっ★拾い物★ 貰い物だけで開店させちゃおう★計画】 …この無謀な計画に賛同してくださり、 素人の私たちが工事現場や建築現場で貰ってきたり拾ってきたりし た物で、 テーブル作ったり内装やったりしている姿にエラク感動してくださ り 「そんならこの俺も一肌脱ぐぜっ!!!」 と   一人だけで汗ダクになりながら壁をぶち抜き、 「おじいちゃん、何か手伝うよ」という皆の申し出に対しては 「いや、素人さんは邪魔になるだけだぜ。 危険だから素人さんは引っ込んでな!!」 なんてソノ筋ノヒトみたいなセリフを言いながら キッチンスペースを廃材を切り刻んで利用して作ってくださった、 粋で神様みたいな手を持っているおじいちゃんである。 おじいちゃんのお孫さんも軽い知的障害などがあり、 この【TRANSIT☆YARD】はカフェをやりたかった訳でも シェアハウスをやりたかった訳でも無く、 知的障害の男の子の自立生活を実現するために予算0でもやり始め ている訳で おじいちゃんは、そんなんにも賛同してくれたらしい。 おじいちゃんの娘さんは差し入れを持って おじいちゃんの仕事を見に来てくれる。 「うちの息子も「 おじいちゃん一人だけでキッチン作れるのかなぁ」 と心配してるし、 私もこんな歳になるまで父の仕事をみたことが無かったから、 今回は見れたことで   このYARDに感謝をしてるの。 家では大酒くらって寝ているだけの父親しか見ていなかったから、 こんなに人様に喜ばれるコトができる父親だなん

週刊?「はい、しげのですが?」仙台弘済病院:さよならライトオブゴールデンボール。

仙台弘済病院:さよならライトオブゴールデンボール。 4週間も黙って休載して、おまけに木曜日でもないのに何だといえばそのとおりだが。 今日宿泊したホテルのせいで、いろいろ思い出したことがある。 このホテルの道路(晩翠通り)の向かい側に立つのが東北弘済病院。 1986年だか1987年だか、いまや定かではない。 僕がCBなんとか、という50CCの原付バイクを柄にもなく使用していたころ。 このバイクはクラッチの入り方・切り方がとてもタイトで、 停止時にニュートラルギアに入れる時に、結構惰性が残ってしまったりするのだった。 その日は歩道の段差に乗り上げる際に股間をしたたか打って、 結構痛いなあと思いながら、 当日はアムネスティインターナショナル仙台グループと 仙台東チモールの会の共催による 「ミミ・フェレイラさんを迎える会」 みたいな学習交流会を催し、我慢をしていたのだった。 (この時にアムネスティインターナショナルの新人職員として、 いまや人権派弁護士として活躍する 岩井信 さんが来仙していた。 僕と同い年。今知ったのだが、連れ合いが坂上香さんだったとは。) 当時、この集会には医学部の学生が多く参加していたのだが、 誰もが僕の 「すっごく痛い」 という訴えに対して 「ぴょんぴょん飛んで○○を下げれば大丈夫」 とかいう適当な答えをしていたのだった。 結果として、引かない痛みに耐えかねて2日後に病院に駆け込んだ段階で 、僕の右睾丸は壊死していたのだ。 仙台弘済病院で簡単な切除手術の後、2週間ほど、入院した。 この病院は仙台の繁華街に接していた。 一番早く見舞いに来てくれたのが西宮弘さん http://kokkai.sugawarataku.net/giin/r01127.html で、これには大変恐縮した。 突然時間ができた僕は、それまで手にすることもなかったレーニン著作集に手を出し 「左翼小児病について」とか読んで 「しげのもついに本格的にまずいぞ」 と言われるようになった。 ベッドの上で原稿を書いて「退学者有志」とかいうビラを、教養部に後輩に撒きに行かせたりもした。 右睾丸と引き換えに、人生で最も温度が高かった時期であったことは間違いない。 1993年に今の連れ合いとの生活を公

福島へ行ってきた・いわき市・郡山・田村市・安達太良方面 (改定 しむら・中村版)

これまで関わりのあった南相馬以外の地域に触れてみようと思い、今回はいわき市、郡山、田村市、安達太良方面を一泊二日で車で周ってみた。 いわき市では、市の自然の家に飛び込みで訪問。 年間で何回か県内の子ども達を対象に宿泊自然体験をやっているそうだが、原発事故以降ボランティアが減少してしまい運営が大変な様子。 また、広大な敷地内にある施設だが、敷地の大部分を占めている森林は放射線量が高く利用できない状況だと。 いわき市側から20キロ圏ギリの検問まで行って、海沿いを走ってきた。 検問の若いお巡りさんは遠くから派遣されて来ていたようだ。 いわき市から郡山へ抜ける途中、あちらこちらで除染作業の張り紙と除染の廃棄物が大量におかれているのを目にした。 一緒に行った志村さんのFacebookより 「行こうかな」と答えてしまってから わざときちんと考えないようにしていた  「物見遊山で行けるところではない」 そんな気持ちのまま 常磐自動車道を行ける最後まで北上 そこには遠くから派遣された若い警官がいて 「3週間ずつです 自分は4度目です」と 「体調管理は?」と尋ねると ちょっと困った表情を見せた 海沿いの線路は当然のようになにも走っていない 片づけられない家はまだ住人を待っている 人の住めない町は晴れ渡っていて明るかった 綺麗に整列した黒い袋 時々白い袋 囁き合ってるみたいに 画面でしか見てこなかったことが 静かに当たり前にそこにあることをやっと確かめた なかなかうまくコトバにできないな 写真もあまり撮れなかった 今夜はここまで(^^)   二日目に田村市に入り、地元のILの方のお話を聞かせて貰った。 原発事故直後と自主避難をしてた時のこと。 今、何が困難なのか? 原発事故前となにが違ってしまっているのか。 時間をかけてゆっくりと話してくれた。 やはり介助者不足が深刻だとのこと。 もともと少ないのだが原発事故以降更に減ってしまったと。 一緒に行った志村さんのFacebookより その2 その後  それぞれ南北に走る常磐自動車道と磐越自動書道 間の国道399号線を北上 ひたすら緑の山道と山間の集落   まさに「日本の原風景」豊かな水と光を浴びた農業の土地 

FUDEOROSHI

そう、筆下ろしです。 外出支援で花やしきに筆下ろされてきましたわ。 浅草はよく行くんですがね、花やしき入ったのは初めてですよ。 去年で160周年とか、HAMPAねーすね。筆下ろされようが、下ろされなかろうが、熟れきったアミューズメントパークは確かなテクニックで昇天に至る。 別件だが、WINS付近の外席の飲み屋街は良いね。あそこでルービーパイイチやりたいっすわ。 パイイチも良いが、メリィゴゥラウンドの乗車にも至る。 この日、支援見学で昨年まで外出支援やってくれていた女の子の後輩が見学に来てくれた。今後風雷で支援に入ってくれるみたいです。 広島で教員になったというIさん、紹介してくれてありがとうございましたー! ニクノ

【風雷の秘密を握り、皆に君臨する】

【風雷の秘密を握り、皆に君臨する】 私は風雷社中の職員ぢゃない ヘルパーですらない 風雷の新人ガイヘルさんたちは私を先輩だと思ってた人が多いし、 外部の人は風雷職員だと思ってる人が多いし、 いつものメール便のおばちゃんは私を風雷事務さんだと信じている し、 近所の人達は私を朝早くから出勤して燃えるゴミを出す係の風雷パ ートさんだと思ってるんだ。 んぢゃ 私の正体は!? (≧∇≦)キャー(o≧∇≦)oo(≧∇≦o) ホントのコトを教えちゃおう!!!!(≧∇≦) 私の正体はっ【 風雷社中職員に君臨する者】 だよーぅっっっ★★★★ キャー(≧∇≦) どーしてかっていうとさ!! 風雷社中職員さんたちの【ここだけの話なんだけど…】 を一番沢山聞いている者が私だからなんだぁーいっ(≧∇≦) …あの人の初体験の秘密も♪ …あの人の恥ずかしい話も♪ …あの人の人には言えない悩みも♪ …あの人の隠れた趣味も♪ …あの人の恋する相手も♪ …あの人の過去も♪ あの人のアレ♪とかコレ♪とかソレ♪とかアソコ♪とかも みーんな聞いているから知っているんだーい(≧∇≦)♪♪♪♪ みーんな手中に収めているんだーい(≧∇≦)♪♪♪♪ フフっ (^w^)こんな私に誰が逆らうことなんか出来ようか?(^w^ ) だから皆  私の言うことをきいてくれたりするんだなっ(^w^)♪♪♪ ふふふっ だから君臨できるわけなのよぅ!! 大丈夫よ  私は口は鋼よりも固く中村さんの体重よりも重いから  絶対に秘密をバラしたり他言したりしませんよっ! だけど大したコト無い話に対しては  私の口は羽毛よりも空気よりも軽くなり   ベラベラ喋ってしまうんだよー★★★★ そしてそれを聞いた皆はザワザワしてしまうんだっ(^w^) 風雷社中の方々はよく私の話を聞いて 「えー(@_@)あの人そうなんだー」 「あー(^_^;)それであの人ああなんだー」 とか言ってたりする。 私はある意味だけにおいて、誰よりも皆を知ってたりする ゴシップ好きなおばちゃんなんだよっ(^O^) それが私の正体だ(^O^) …しかしね どーして皆、自分の事を私にだけ話してくれるのかな? たまに牧師な気分になるよっ(^O^) 迷える仔羊たちよ!